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思い込み

感情をクリーニングし、心の中のとらわれを解放することを進めてきて、
随分と心が軽くなってきました。

そこで見えてきたのが、
いかに自分が多くの偏見、とらわれ、思い込みでもって
物事を見てきていたかということです。

「子どものような素直な心でものを見つめてみたい」
これは誰しもが願うことですが、
様々な経験を積んできた大人にとって、それは容易なことではありません。

私たちは経験に基づいて物事を判断します。
これは素直な見方とは相反するものですが、
経験という一種の偏見、とらわれ、思い込みを活かすことによって、
身の回りの情報を効率よく処理することができます。

パソコンやテレビなどのデジタル情報機器の世界では、
大量のデータを圧縮するのはごく当たり前の技術です。
ひとつのデータの流れの中で、前と同じような内容のデータが続く場合、
前のデータとの差だけを示すことによって、
少ないデータ量で多くの情報を処理することができます。


お恥ずかしい話ですが、
私が通っているスーパー銭湯では、
いつもお決まりのパターンでいろんなことをしているのですが、
その際、ひとつひとつの行動をまったく深く考えることなく
ただ無意識のうちに行っているのです。

いつもは一人でスーパー銭湯に行きますが、
時折知り合いと一緒に行った時は、
いつも自分の行っているパターンでは入浴できず、
知り合いの入浴ペースに合わせるように、かなり気を遣っています。

そうしていつものパターンが崩れてしまうと、
かなり高い確率、正直言って50%以上の確率で、
タオルを脱衣所に忘れたり、ロッカーのキーを抜き忘れたり、
何らかのポカをしてしまいます。

ちょっと異常な率の高さなのですが、
それだけ普段パターンに則った行動をし、
自分の今している行動に対して意識を向けていないということなのでしょう。


下の文章をなるべく速いスピードで読んでみてください。

こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。
この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか
にんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の
もさじえ あいてっれば
じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて
わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?
ちんゃと よためら はのんう よしろく


きちんと読めましたでしょうか?
日本語の文章を読む際にも、
私たちはひとつひとつの文字をきちんと読み取っているわけではなく、
前後の流れから推察し、かなり情報を省略し、推察しながら
目を文字の上に走らせています。

私もこうやって書いた文章は、後で誤字脱字がないかをチェックするのですが、
自分が一回書いた文章は、どうしても簡略化して読み飛ばしてしまうので、
よほど注意しない限り間違いを見つけることは困難です。


武道でもヨガでも、その基本のひとつに脱力ということがあります。
背筋を伸ばし、丹田(下腹部)には力をみなぎらせていても、
体全体の力を抜いてリラックスさせることによって自由な動きを体得できます。

この脱力するというのが普通の人にとってはなかなか難しいのです。
私たちは普段から体をこわばらせることが習慣になっていて、
意識しても簡単に力を抜くことができません。

そもそも指摘されなければ、
体の至る所に余分な力が入っているということすら気づかない状態です。


思い込みというのもこれととてもよく似ています。
普段普通に生活している時には、
自分の持っている思い込みに気づくことはほとんどありません。

自分の立っている基盤のようなものが崩れ、
その思い込みを捨てざる得なくなった時、
多くの人は初めて、その当たり前だと思っていた思い込みの存在に気がつきます。


感情をクリーニングするということと、思い込みを捨てるということは、
たぶん同じ事だろうと以前は考えていたのですが、
心の解放を進めるに従って、それは平行しているけれども、
異なる世界のものだということが少しずつ分かってきました。

感情のクリーニングというのは、
椅子に座ってワークという形でもできるものです。

けれども、その人の生き様に直結しているとも言える思い込みは、
やはり苦労や試練と呼べるような厳しい経験を積まなくては、
なかなか手放すことはできません。

どんな世界でも、
常識という思い込みを打破した素晴らしい業績を上げている達人は、
その人の人生の中でどこかに
必ず厳しい環境に身を置くという経験をしているはずです。

苦労と難儀は意味が違うということを以前聞いたことがあります。
自ら何かを求めて辛い思いをするのが苦労、
自らの努力不足で厳しい環境に身を置かれるのを難儀と言うそうです。
できるならば、難儀より苦労をしたいものです。


素直な目と心を持ち「今を生きる」ということは、
今の私にとって大きなテーマでありますが、
まだそこの第一歩を歩きはじめたところで分からないことばかりです。

ただこれは、魂の生まれた故郷に帰るようなもので、
誰にでもできることなのだと思います。
伴に、歩きましょう。

2010.11.5 Friday  
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