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闘うのではない
十年ほど前、知り合いからヴォイスヒーリングをする
渡辺満喜子さんという方の本を借りて読みました。
とてもいい内容の本だったのですが、
その中でも特に心に残る一節があり、
その部分はコピーを取り、今でも大切に保管しています。
引き受け気功における「引き受けます」という言葉、
ホ・オポノポノの「ごめんなさい、許してください、ありがとう、愛してます」
という四つ言葉、
これらを口にするのは易しいですが、
深く得心し、思いを込めて唱えるのは容易ではありません。
誰しも病や苦しみは避けて通りたいと願い、
そういっものと直面した時、
その災悪を憎み、はね除けてしまいたいと思うものです。
身の回りで起こることにはすべて意味があり、
すべては学び、気づきのための材料であるならば、
「災悪」をも喜びを持って受け入れ、
その中からその「意味」を感じ味わうのが本来望むべき姿でしょう。
そしてそのことは真理であり、
今多くの人がそのことに気付き始めてきているが故に
引き受け気功もホ・オポノポノも、
また多くのスピリチュアルなものも、
たくさんの人たちの間で広まってきているのだと思われます。
「病とは闘い、憎しむべきものではない」
この大切なことを、渡辺満喜子さんの本の一節から深く感じ取ることができます。
最近その一節をコピーしたものをネットで知り合った女性に送ったところ、
とても感じるところがあったらしく、
涙を流しながらその文章を読み、
大きな気付きを得たというメールが返ってきました。
彼女もまたある病を抱え、とても利発で、
その中に出てくる女性とご自分とに重なる部分を見たのだと思います。
渡辺満喜子さんのその文章を、ここにそのまま転載させていただきます。
お読みになった方が、何らかの気付きを得られることを願っています。
***** 誰よりも愛した友を救うことができなかった *****
私にはごく幼いころから、妹のようにかわいがってきた十歳近く年の離れた親友がいた。私の「癒しのプロセス」が深化しつつあったころ、彼女が癌になった。
最初、自分の病名を告げた彼女の体に触れると、私の魂が深い悲しみと絶望感にとらわれた。慰めなければ、励まさなければという思いを裏切って、私は号泣した。感情に翻弄されたのではなく、純粋に身体的な反応として私は彼女に巣喰う病気の質と強さをとらえたのである。
泣きながら手が勝手に動いていって、「野口整体」でおぼえた愉気をはじめた。
渾身の力を込めて、私は彼女が助かるように祈りつづけた。
手に「病」の痛さがまっすぐに入ってきた。私の身体的な反応が、わずかながら恐怖を味わった。しかし、手を放してはならないと私は自分にいい聞かせた。
自宅に戻る道すがら、私は冷汗が滲むような悪寒におそわれた。体が何かを吐きだそうとしていた。やっとの思いで家にたどりつき、トイレに直行した。体が折れ曲がり、突きあげるような力に支配されて私は吐きつづけた。娘が驚いて救急車を呼ぼうとしたほど、強い反応だった。
むろん吐きつづけたものは、私が手のひらに受けた暗い病の「気」にちがいなかった。私を「整体」に導いてくれたYさんは、親友の手術が成功したときいて「あなたの愉気もきっと役にたったのよ」といってくれた。
しかし親友にそう告げると、一瞬、彼女の表情が複雑に揺れうごいた。私は自慢したわけでも、恩着せがましい気持ちでいたわけでもなかった。ただただ、彼女の回復が嬉しくて、つい口がすべったのである。
何日かたったある日、彼女から電話があった。電話のむこうで彼女は切り口上でこういった。
「私は今回、最先端の医学で救われたの。そのことを忘れないで!」
返す言葉もないほど、私は心に深い痛手を負った。
彼女は利発で努力家で、だからこそ癌を乗り越えて強く生きようとする意志力に満ちていたが、幼いころから冷静な顔の奥に負けん気の激しい性格を秘めていた。
私は、あなたの体から受けた「病の気」をたいへんな思いをしてやっと吐きだしたのだと、彼女に告げることはできなかった。「癒す立場」の人間がそんなことを告げるのは、ルール違反だという気が強く自分を戒めた。したがって、私は返す言葉もなく彼女の反発によって傷つけられ、自分を守ることもできなかったのだ。
「こんなことが起こるなら、人を癒す力なんかもたないほうがいい!」
私が自分に開いた「力」をうとましく思い、深い悲しみに閉ざされた最初の出来事だった。
私の「愉気」で自分の病が回復したわけではないと告げた彼女は、自分の病気を客観的にとらえ、自分の生き方の軌道修正をはかることができるほど、ほんとうの意味で知的な人間だった。だから退院するとヨーガをはじめ、私よりもはるかに熱心にその方面の書籍を読みあさり、いつのまにか宗教心の強い謙虚に生きようとするスタイルを身につけていた。
なにより癌を克服しようという激しい闘志をみなぎらせ、ちょっとつついただけで破れてしまうのではないかと思うほど、静かな緊張感が体全体に満ちていた。
私は再び彼女との交流を取り戻し、「人間と宇宙」とのかかわりや「病と精神」について語り合い、時を忘れることがあった。ところが、私の「癒しのプロセス」が進み、何かが新しく見えてくると、私はまたもや過ちをおかすことになった。
彼女の尋常ならざる「癌克服への闘志」は、私の気を重くさせた。幼いころから勉強家で受験勉強を勝ちぬき、「計画をたててそれをクリアーして難関を乗り越える」やり方に自身のある彼女は、「癌克服」をテーマに生きる戦士を思わせた。
私はそれをまちがいだといいたくてならなかった。私には、幼いころからの彼女のいとしい柔らかい性格が思いだされてならなかった。虫がこわくて、足元の蟻に叫び声をあげて泣いたかわいい彼女は、いったいどこへいってしまったのか。友人たちとの遊びのなかにいつも彼女を連れていったのは、「妹」をもったことのない私が彼女の存在を誇らしく思っていたからであった。
長女で「姉」をもたない彼女は、私のスカートの裾をしっかりとつかんで、どこにでもついてきた。私の姿がちょっとでも見えないと、心細さに涙ぐむような気の弱い子供だった。あれが彼女の本質なら、それを抑圧して現実社会の競走にいともやすやすと勝ちぬいていく彼女のやり方こそが、病を引き起こしたのかもしれない。
彼女自身がそう反省して、ヨーガを基軸に自分の生き方を建て直そうというのだった。にもかかわらず、今度は癌が彼女の戦いのテーマになり、彼女のエネルギーの本質は「病との競走」に費やされている。
私は彼女のためにできうるかぎりのことをしてやりたかった。だから執拗に私は、「癌と競走すること」をやめるように、自分のなかにある根深い「競走」の構造に気づいて、それを捨てるようにいいつづけた。
私はときおり進行する彼女の病を、暗いざわめきのように直感的にとらえることがあった。自分では実感できないほど精神に深く食い込んだ「競争心」、私が執拗に指摘しつづけるそれを彼女は「そんなものは存在せず、私のやり方が正しいのだ」と突然、居直ることがあった。
プライドが高いこともあって、私の存在がうっとおしくなると私から背を向けた。優しく賢く柔らかい彼女の表情がかき消えると、必ず再入院の報を聞くことになるのだった。
彼女もまた「素人のあなたがヒーラーまがいのことをいって迷惑だ」という態度にでた。それどころか、あなたよりも自分のほうが霊的能力に優れているというような意味の言葉を、やんわりと皮肉たっぷりにいわれることさえあった。まさしく彼女は、言葉どおりに私よりもはるかに「霊的な世界」を歩くようになっていた。
そして、くり返された親密な関係と疎遠な関係が「疎遠」に落ちついたとき、彼女は死んだ。彼女の年齢の若さが、八十歳で死んだ自分の父の、また母の葬儀よりはるかに深い悲しみを運んできた。
いつかまた故郷で育んだ姉妹のような関係を取り戻せると信じて、私は彼女の心の行方を追うことをやめ、そして突然の訃報を受けとったのである。
2010.6.30 Wednesday
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