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2018年12月22日 ・・・ 多様性の時代

大和の国日本、
聖徳太子の十七条憲法にもあるように、
日本は太古から「和をもって尊しとしとなす」という
周りとの協調性を旨とし、
各自の個性を尊重するということを潔(いさぎよ)しとしませんでした。

日本の戦後経済急成長は、
この皆の力を合わせ、遮二無二目標に向かって突き進んでいく
日本人の持つ協調性を礎とする集団パワーの為せる技だったと感じます。

けれどどのようなことにもいい面と悪い面があり、
この周りとの協調性をあまりに重んじ過ぎると、
集団から外れたものを排除しようとしたり、
これまでとは異なるものの可能性の芽を
摘んでしまうことになりかねません。

『長いものには巻かれろ』
『出る杭は打たれる』
『右へならえ』
日本人の持つ和の精神は美徳のひとつではありますが、
これは悪しき平等主義につながり、
マイナス面に働くこともあるということを忘れてはなりません。


集団で歩調を合わせて事に取り組むには、
その集団全員の同質性が必要です。
また同質ではない場合でも、
同質であるかのように振る舞うことが求められます。

ですからそこに歪みが生じてくるのは当然のことであり、
「さくらんぼ計算」のところにも書いたように、
例えば小学生の能力というひとつの面を取ってみても、
そこには極めて大きな差異があり、
それを一律同じように扱い、
同じことを求めるというのは所詮無理なことです。

そしてそこには無理があるということを認識し、
その無理から生じる歪みを是正していくことが
教師、指導者、リーダーの役割であると考えます。

その無理を無理のまま通すというのは。
『足に靴を合わせるのではなく、靴に足を合わせろ』
というような理不尽なことなのです。


Twitterに、小学校における分数計算で、
約分をしたら正解をもらえなかったということが載っていて、
こんな前近代的なことが
いまだ実際の教育現場で行われているという事実を知り、
愕然となりました。



約分したら「習ってないからだめです」という事で約分しない答えに直してくるような宿題が。「でも間違っていないですよね?」と言い返した息子に「では他のクラスに行って下さい」と言った先生。モヤモヤするぞ?なんだその返し。

「授業でまだ約分を習っていない」という理由で
約分した答えをバツにする理由はなんなのでしょう?
そこにどのような教育効果があるのでしょうか?

学校の授業では、一人の先生が教壇に立ち、
三十名なり四十名の同学年の子どもたちに対し、
同じ内容のことを教えなければなりません。

これは今の学校教育制度においては動かすことのできない前提条件であり、
これは否定することができません。
けれどその授業内容を受け止め、
そこからのアウトプットは千差万別であるのは自然なことであり、
そのバラエティーに富んだ子どもたちの能力、好奇心、可能性の芽を、
教師が子どもたち一人一人の個性を考え、
大切に育てていくのが大切な役割のはずです。

この約分をした生徒はなぜその約分の方法を知っていたのでしょう。
自分の頭で考えたのか、
公文や算数の塾で先取り学習をしていたのか、
その理由は分かりませんが、
確実に言えることは、
せっかく覚えた約分をしたことをバツにされ、
この子はきっと算数に対する興味、学習意欲は
減退したであろうということです。

そして十年、二十年後、このことを振り返り、
「授業の先取りで約分したのを先生がバツにしてくれてよかったな」
と思うことは99.9%ないでしょう。

上のツイートは、残念ながら現在はアカウントごと削除されています。
たぶん学校批判に通じることは、
自分の子どもの不利益につながるのではと
危惧されてのことではないかと推察します。
つまり“同調圧力”ではないかと思われます。


このような子どもの能力発達の芽を阻害する行為というのは、
例えば徒競走において、
突出して速いタイムで走る子どもがいた時に、
「学校ではそんなに速く走れるような指導はしていません。
 ですからあなたのタイムは記録として認めません」
と言うのと本質的にまったく同じことです。

幸い上のツイートにタ対する意見の多くは、
指導方法に批判的なものばかりです。
その一部をご紹介します。






今は時代の大変革期、価値観が大きく変わろうとしている時です。
こういう時には、多数派信奉の同質性よりも、
突出した個性を尊重し、
そこから生まれた新たな流れで全体を引っ張っていくことが求められます。

それはすべの面に対して言えることで、
例えば政治の分野でも、
これまでは多数決の力で法案を通すため、
同じような考えを持つ議員たちで政党を作り、
その政党の力で政治を引っ張っていくという政党政治の形でした。

同じ政党に属するとはいえ、
その所属議員たちすべてが
同じ議題に対して同じ考えを持っている訳ではありません。
けれどそれに対して党の方針と違った意見を述べることは、
党に対する裏切り行為に他なりません。

これから時代がより深まってくる中で、
政党政治の悪い面が表に現れることが確実に多くなってくるでしょう。
そしてより一人一人の個性や意見が尊重されるようになるでしょう。
これは時代の必然です。


こうした硬直化した思考や構造を頑なに持ち続けるのは、
古い時代から続く組織や権威ある団体などに多く見られるもので、
いったん安住した地位や権利を確保してしまうと、
それを手放さないことばかりに意識が行き、
変化する周りの状況が目に入らないのです。

Windows95の開発にも携わったというエンジニア中島聡のブログを
よく読んでいます。
その中で最近の
「NTTの株価総額が世界一だった時に、Microsoftに転職した理由」
というエントリーをとても興味深く読みました。

NTTの硬直化した大企業病というものは、
権威主義的な学校教育の場と共通したものを感じます。
その一部を抜粋させてもらいます。

サクサクと、資料を書き上げ、上司のところに持って行き、「特許を取るべきだし、論文も書きたい」というと、返って来た答えが、「まだ早い」でした。彼によると、特許なんかは新入社員がいきなり申請するものじゃあないし、論文に関しても「順番がある」というのです。

なんだかいきなり出鼻をくじかれた感があったのですが、この上司の「順番がある」という言葉の意味が理解できる事例が、そのすぐ後に起こりました。

同じ研究室の先輩(Aさん、入社4年目)が、素晴らしい研究をし、それをフランスの学会で発表することになったのですが、実際にその発表をするのは、その人の上司(Kさん、入社7年目)ということになったのです。Kさんは、たまたまその先輩の上司になっていましたが、全く分野の違う研究をしており、その先輩の研究内容に関しては、概略しか理解していなかったのです。

私の上司になぜそんなことをするのかを尋ねたところ、「Kさんはまだ海外での研究発表の経験がなく、彼のキャリアを考えるとそろそろしておくべき」だからとのことです。なんだか変な話ですが、それまさにが「順番がある」という話だったのです。


別の先輩(入社5年目)は、とあるソフトウェアの開発担当だったのですが、自分自身はコードを書かず、フローチャートも含めた詳細な仕様書を書くのが仕事でした。私から見れば、どう考えてもその仕様書を書く時間でプログラムが書けるにもかかわらず、ソフトウェアの開発は、仕様書を書いて、下請けに発注するのが決まりになっていました。



これからは各自の個性、可能性を尊重し、
その上で同質性ではなく、
異質なものを持ったままで融合し、ひとつのものを築き上げていく時代です。
真のバランスとは、多様性を持った上での調和です。

そういった新しい時代の理を体現していくには、
旧来の古いものを崩していくことが求められます。

2018.12.22 Saturday  
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