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2017年7月11日 ・・・ 社会性投資

食料品をスーパーで買う時は、棚の手前のもの、
賞味期限の古いものから取ることがルールです。
そのことはこのホームページで何度も書いてきました。

数日の製造日の差は食品の状態にはほとんど影響ありません。
けれど『自分さえよければいい』という思いで棚の奥に並ぶ商品を手にした時、
その思いは確実に天に届き、
いつか形となって必ず自分の下へと還ってきます。

人間の持つ想念の力は偉大です。
ですからその力はプラス方向に使わなければなりません。


先日知り合いのところにあった会報に、
掃除道の鍵山秀三郎氏の言葉が紹介されていました。

それを書かれた方は鍵山氏の本を読むか講演を聴くかして、
鍵山氏も述べられていたこの『賞味期限の古いものから取る』という言葉が、
最も心に残ったとのことでした。

スーパーの客がみんな新しいものを手に取るようになると、
必然的に古いものが売れ残り、
まだ食べられるものでも廃棄物として捨てなければならなくなります。
そして利益が下がった分だけ商品価格を上がるようになり、
最終的には消費者自身が損をすることになるのです。


・・・ というようなことが書かれていました。


誰でも古いものよりも新しいものを欲するのは当然です。
けれど目先の欲望(エゴ)を優先させ、
社会の一員として果たすべき役割を忘れてしまっては、
今の日本社会の豊かさを保つことはできません。

法律は守るべきものですが、
法律に触れなければ何をしてもいいというわけではありません。
法律は最低限定められたルールであり、
その上の規範がモラルであって、これが社会の豊かさを支える礎となります。

日本を訪れる外国人観光客が、
日本の文化や清潔で秩序だった社会の営みに感激したという話をよく耳にします。
これは日本人の根底に流れる基底文化のお陰であり、
“阿吽の呼吸”と呼ばれるように、
人から言われたり強制されなくても自然と振る舞える、
不文律となっている作法が日本人全体の行動様式に染みこんでいるからです。

これはひとつには狭い島国で暮らし、
他人、隣人と深い関わりを持たなければ暮らしていけない環境下にあり、
その他人との関わりをよくするためのルールが、
自ずと当たり前のこととして身に付いていった結果だと思われます。

自分のことだけではなく他人のことを慮(おもんばか)る、
これは日本人の持つ素晴らしい美徳です。

そう言えば、今学習している英語のテキストにもこんな例文が載っています。
Japanese people usually express their feelings as indirectly as possible so that they won't offend others.
日本人は、他人を傷つけないように自分の気持ちをできるだけ関節的に表現するのが普通だ。


相手への伝え方は間接的に、
自ら行う善行も目に見える形ではなく、さりげなく、
世阿弥の説く『秘すれば花』の世界です。


二十数年前、『社会性投資』という言葉を初めて聞きました。
これからの世の中は環境問題がより一層深刻化し、
自然環境、社会環境を維持するため、
これまで以上、プラスアルファーの社会への投資が
重要になってくるということです。

具体的には、新しいパルプから作ったトイレットペーパーが百円だったとして、
それに対して手間のかかる、かつ品質の劣る再生紙によるトイレットペーパーが
百十円だったとしても、
環境保護意識の高い消費者は、
より高価な再生紙の商品を求めるだろうとのことでした。

そして実際ひとつのライフスタイルとして、
環境意識の高い商品を求める消費者が増えてきていることも事実です。


けれど社会性投資の“社会”という言葉は実にあやふやで、
地球温暖化防止、CO2削減に関わるものから、
道路、図書館といった建物の建設、
そういったほとんどすべてのものが、
広く社会性に関わることと言えなくもありませんが、
ここで言う社会とは、利便性、快適性を求めるものではなく、
環境、生命に関わるもののことを示します。

物事の指針を定める時、
それは具体的なものでなくてはならず、
そのキーワードとしてこの社会性投資という言葉は
実に分かりやすいものだと考えます。


これから自然環境を守り、真に豊かな社会を築いていくために、
政府はその具体的指針となるルールを定めていかなければなりません。
それがルールとして社会に貢献できる社会的投資の指針です。

それともうひとつは、明確にルール化されたものではなく、
各人の心の中に規範、モラルとして持っているもの、
ルール化、明文化されていない社会的投資、
これをいかにしっかりと持つことができるかどうか、
これが極めて重要であり、心の豊かさに直結したものです。

先のスーパーの食料品のことも、
広くは社会的投資に結びついた行動と言えるでしょう。
その他地域活動やボランテイア活動、
すぐに自分の利益には結びつかなくても、
暮らしやすい社会を築き、周りの人々の幸せを導くもの、
そういったものの領域を自らの生活の中に広げていくこと、
これが社会全体の幸福、
一人一人の真の心の幸福を導く唯一の道だと考えます。


モノの豊かさと心の豊かさ、
このどちらもなければ幸せにはなれません。

けれどモノの豊かさを追い求めていってもキリがないことは、
長い歴史の間、人類は嫌というほど学んできているはずです。

モノがない貧しさは辛いことですが、
心の豊かさを失った“卑しさ”は、何をもっても癒やすことはできません。


人類がこれから地球環境と共存し、
持続可能な社会を築き上げ、
そこで心から幸せを感じることのできる暮らしを実現していくためには、
これまでのモノの豊かさ、右肩上がりの経済成長を
唯一の幸せの指針とするのではなく、
心の中で他人を慮り、
ルール化されない社会性投資のできる人たちを育て上げる、
そういった価値観を持った社会を作っていく、
これしか道はないと考えます。
  (その面からも、日本は人類全体を救う盟主としてのカルマがあります)

目には見えにくい、形にできにくいものではありますが、
自らの日々の行動の中で、
その社会性投資と呼べるものの割合がどのぐらいあるでしょうか。

『武士は食わねど高楊枝』
『粗にして野だが卑ではない』
日本人は、今一度この精神を思い起こすことが求められます。

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最後に、これも何度も書いたきたものですが、
『天国と地獄』の話を記します。

ある人が仙人に連れられて地獄に行きました。
そこは想像していたのとは違い、花が咲き小鳥がさえずり、
とてもきれいなところでした。
そして食堂の中に入るときれいなテーブルに数々のご馳走が並び、
その周りをたくさんの人が取り囲んでいます。
しかし全員の手には1メートルもの長い箸がくくりつけられていて、
みんな自分の口の中にご馳走を入れようと必死になっているのですが、
どうしても食べることができず、みな飢えてしまっています。

今度は天国に行ってみました。
天国の景色は地獄で見たものとまったく同じでした。
食堂もテーブルに並ぶ数々のご馳走も、
そして手にくくられている箸も・・・。
しかし違うのは、テーブルを囲む人たちがみな周りの人たちの口に
長い箸を使ってご馳走を運び、お互いが分かち合い、
みな福々としているということです。


本当の天国は、自らの心の中にあるのです。

2017.7.11 Tuesday  
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