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2016年10月25日 ・・・ 大難は小難、小難は無難

人生いろいろではありますが、
どんな人生にも様々な苦難と呼べるものはついてくるものです。
そんな苦難と出合った時、
それを乗り越えるための知恵のひとつが、
『大難は小難、小難は無難』という考え方です。

一生懸命に生きているのに思わぬ災難と出合った時は、
本当はもっと大きな災難に出合うはずだった、
それを小さな災い、小難にしていただいてありがたい。
平々凡々と日常を過ごしている時は、
本来なら出合うべき災難を回避してもらっているから
安穏と暮らすことができる、だからありがたい、
このように考えようということです。

これはどんな状態であってもそれに不満を抱くことなく、
ただ感謝して生きるための素晴らしい考え方だと思います。


人間は他人と比べるところから不満が生まれ、
不幸を感じます。
おうおうにして自分よりも恵まれている人と比べ、
それに至らない自分に対して不満を抱き、
またたとえ他人が同じような状態でも『隣の芝生は青い』と感じるものです。

そんな時に『大難 ~ 』という考えを心に抱き、
他人に向けた比較の視点を自らの内なる運命に向けていけば、
その状態に感謝し、喜ぶことができます。

これは『有り難い』という言葉と同じです。
どんなことでも当たり前ではなく有り難い、
つまり今の状態は恵まれたものであるということ、
とてもラッキーで、本来ならば有るのが難しいことだということです。


ただどのようなものにもいい面とそうでない面があり、
この『大難 ~ 』という言葉を宗教で語った場合、
それはご利益を求めて信仰している人に対する言い訳、責任回避にもなりえます。

つまり病気を治したいとか何か大きな悩みを解決したいと
願って信仰している人に対し、
その思ったようなご利益が得られず不満を抱かれたとしても、
『大難 ~ 』という考え方を示すことによって、
「本来だったらもっとひどいことになっていたのをよくしてもらっているんだよ」
と納得させる材料にもなるのです。

ここで宗教の批判をするつもりはありませんが、
宗教に対して期待するご利益というものは、
その人の未知なる将来の運命に対しての効果であり、
それを後に客観的に測定することは不可能で、
だからこそ宗教には詐欺罪が適応しにくく、
実際に騙されたり、また騙されたと感じる人も多いのです。


言い訳、責任回避にもなるというのは自分自身に対しても同じです。
感謝するのはいいことですが、
起こったことをきちんと見つめ、
そこから反省すべき点は反省し、
改善、対策が必要ならば、そのための行動を起さなければなりません。

有り難い、嬉しい、それで万々歳と感じたら、
そこですべてを完結させてしまうことがよくあります。
けれどそれではことが起こった真の意味合いを感じ取り、活かすことはできません。
さらにはそれが将来起こる災いにもつながることにもなりかねません。


大難が小難になるのは有り難いことですが、
大難は、小難が集まったところから生じます。

先日工事現場のパイプが路上に落下し、
それが下を通行していた男性の頭を直撃し、
その方が亡くなるという痛ましい事故がありました。

これなどは確率的には極めて低いものですが、
パイプが落下するという時折起こる小難を
極力ゼロに近づけていかなければ、
死亡事故という大難を避けることはできません。

小難でよかったと胸をなで下ろすのは結構ですが、
その小難から何かを学び、
その小難をなくす努力をしていかなければ、
いつかはその小難が積み重なり、
パイプ直撃といった大難は必ず起こってしまいます。

小難が起こった時にそこから対策を講じ、
同じ過ちを繰り返さないようにすれば、
その小難は無難へとつながるものとなり、
このふたつの差は極めて大きいのです。


人間は明るい気持ちを持っている時の方が、
前向きにものを考えやすいものです。

『大難 ~ 』で感謝の気持ちを持ったなら、
それで安心してしまうのではなく、
その感謝の気持ちを前に進むエネルギーに換えていく、
そこに素晴らしい価値が生まれます。


さらに最近思うのは、
起こった物事に対し、それを大難、小難、無難かを決めるのは
自分自身であり、
極力物事をいい方向に活かしていくために、
自分自身の判断と行動で、
より難が少ないものへと持って行かなければならないということです。

『人生万事塞翁が馬』、『災い転じて福となす』、
物事の価値は起こった時点で決まっているのではなく、
起こった時点から決めていくものです。
宝くじに大当たりし、それが不幸の始まりになる人もいれば、
道端で転び、そこから素敵な人との出会いが生まれる場合だってあるのです。

例えば交通事故に遭って入院したとすると、
それは外から見ると大きな災難かもしれませんが、
その事故を自分なりにどのように経験、教訓として学び、
活かしていくことができるのか真剣に考え、
実際にそれを将来への糧とできたならば、
その事故はその人にとって小難であり、また無難や福ともなりえます。


このホームページで何度も書いてきた、
『ものそのものに価値があるのではなく、
 そのものといかに関わるか、そこから価値は生じ、
 それは自分自身が決めることである』
このことと『大難は小難、小難は無難』とは同じことを説いています。

深い真理は実に簡単なことではありますが、
それを真に体得するためには、
繰り返しいろんな言葉で頭に入れ、様々な経験をしなければなりません。

そしてそれを実践できる人が、
真の意味での賢い人であり、強い人なのだと感じます。


こう考えてみてまたあらためて思うのは、
これはアドラーで述べていることにも通じるということです。

アドラー心理学の『目的論』、
人間の行動は過去の経験など外的要因によって決定される(原因論)
のではなく、
自分の目的によって決定される(目的論)

アドラーはトラウマを否定します。
起こった原因を過去に遡って考えても、
過去は変えることはできませんが、
未来は自ら創造していくものであり、
その自らが描いた未来像を現実とする目的のために、
今の現実を創り出して(引き寄せて)いる、
そう考える方がはるかに建設的です。

すべての価値、幸不幸を決める源泉は今にあります。
大切なのは、今何を与えられているか、
それを世間の尺度でいいか悪いかを判断するのではなく、
その与えられたものをどう活かし、自らの未来を創造していくのか、
そこに価値の本質があります。


プラス発想という言葉も同じです。
起こったことをプラスに考えるとは、
それを有り難いことだと感謝するだけではなく、
そのことを将来的にプラスにできるよう、活かしていくということです。
過去をどうプラス面で捉えるかではなく、
今をどう活かし、将来のプラスにするかが大切です。

歴然たる事実としてあること、
それは過去は変えられないということ、
過去の出来事を後悔したり恨んだりしても、
そこからは何ら建設的なものは生まれてきません。

もしより建設的に生きることを願うのであれば、
変えることのできない現実をしっかりと受け入れ、
  (これが感謝といいうこと)
そこから自らの思いと行動で未来を創造していくことです。


『大難は小難、小難は無難』というのは、
過去からの流れでそうなって有り難いと感じるものではなく、
今の自分がそう判断し、創り出していくものです。

アドラーでは、
『人は今この瞬間から幸せになることができる』と説いています。
この言葉を深く噛みしめたいと思います。

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2016.10.25 Tuesday  
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