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2012年10月4日 ・・・ 視点のつづき

私は他の人とは視点が異なっています。
それは変わり者だということでもありますが、
ここで言うのは、背が高いので、物理的に目のある位置が高いということです。

先日広島駅の地下広場で神楽見物をしました。
ものすごい人の数で、舞台の袖や人垣の後ろの方から見物をしていました。



私は人垣の後ろからでも、余裕を持って舞台を見ることができます。
それは自分にとって当たり前のことなのですが、
あの日は一緒に行った人から、
「サカイさんは舞台がよく見えていいね♪」と言われ、
あらためてそのことを感じました。

身長180p以上の人が最も得をしてると感じるのは、
満員電車で息苦しくないことだとテレビで聞いたことがありますが、
私はそれを知って驚きました。
たしかに人が詰め込まれた電車の中で、
狭苦しさを感じても息苦しさを感じたことはありませんでした。
やはりそれも自分にとっては当たり前だと思っていたことです。

回りに同じぐらいの背丈の人たちがいたら、
口の位置が同じなのですから、息苦しさを感じるでしょう。
また背の低い女性なら、その圧迫感は相当なものだと思います。
私には想像することしかできませんが ・・・ 。

背が高いというのは肉体的特徴ですが、
精神的特徴にもかなり影響を与えているのは間違いありません。

私は人に対して物怖じせず、何でも思ったことを言うタイプですが、
これは高身長であるがゆえの自信から来る部分がかなりあると思います。

また相手にとっても、背が低い小柄な人よりも、
背の高い体の大きな人間が言うことの方が、
説得力を感じる傾向にあるのは事実です。

さらに相手がこちらの話に説得力を感じなくても、
相手の体が大きければ、文句を言いにくいというのもあるでしょう。
つまりごり押しされてしまうということです。

視点、肉体からくる視線の位置というのは微妙です。
いつも乗っている自転車のタイヤに空気を入れたり、
新しい靴を履き、靴底が高くなったりして、
ほんの数ミリ視線の位置が変わっただけで、
体はそれを違和感としてしっかり感じ取るほど鋭敏です。

これが10pも20pも違う状態で何十年も過ごしていたら、
「世間に対する見方」という視点に大きな差異が生まれるのは当然です。

人は自分と違う立場の人のことは、
なんとなく想像はできるものの、
本当のところで相手の気持を理解することはできません。

自分は自分独自の視点を大切に持つこと。
私は天から与えられた使命、肉体的特質から、
大所高所に立ち物事を判断する人間にならなければならないと自覚しています。


私はクラシック音楽が大好きですが、
その中でも、「生命の輝き」でご紹介した小林愛実ちゃんの弾くピアノが
一番のお気に入りです。

最初に愛実ちゃんの素晴らしさを感じたこのモーツアルトのコンチェルトは、
もう百回以上聴いています。



彼女の音からは、卓越した技能とともに、
純粋な子どもしか持ち得ない音楽への視点、感性を感じさせます。
そこから音楽の喜びがあふれ出し、
この聴いていると自然にわき出る心躍るような幸福感は、
どんな巨匠の演奏にも勝ります。

そこから何年経ったのでしょう、
一昨年、14歳の時に演奏されたというショパンのノクターン20番「遺作」、
これが最近は気に入って、毎日何度も聴いています。



なんという深い表現力、わずか14歳でこんな世界が表現できるとは、
まさにアンビリーバブルとしか言いようがありません。

先のモーツアルトの頃と比べると、
体も成長し、技術も表現力もさらに磨きがかかっています。
けれどその中で嬉しいのが、より幼い頃に持っていた
みずみずしい子どもらしい感性がしっかりと感じられることです。

これだけの技巧を身につけるには、
相当の修練を積まなければならないはずです。
そのためには、子どもらしく遊び回ることも制限されることと思われます。
よく天才少年、少女と呼ばれる子どもたちが、
子どもらしからぬ冷めた表情をしているのを見かけますが、
愛美ちゃんは今でもいい意味での
子どもらしい感性、視点を持ち続けてくれているようです。
それが彼女の持つ魂の徳なのだと思います。


時代によって価値観が変わるように、
求められる視点というのも変化します。

今のこの激変期は、成長一辺倒だった安定期とは違い、
何を手に入れるかよりも、何を手放すかに視点の重要性が移っています。

「ツキの正体」でご紹介した雀鬼桜井章一の本を今も読んでいます。

人を見抜く技術──20年間無敗、伝説の雀鬼の「人間観察力」 (講談社プラスアルファ新書)人を見抜く技術
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桜井 章一

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この中の一節が心に響きました。

牌は捨てる行為に美醜が表れる

麻雀では、四人のプレイヤーが十三個の牌(パイ)を手牌として持つ、そして、山から順に牌を一個ずつ取っては、手牌の中から一個を捨てていくという行為を繰り返す。
各プレイヤーの人間性が出るのは、山から牌を取るときではなく、捨てるときだ。十三個ある牌の中からどれを捨てるか、その「捨てる」という行為の中に、いろいろな意味が含まれている。
勇気や的確な情勢判断によって牌を捨てることができればよいのだが、実際の勝負の中ではそれがなかなかできない。捨てるという一打一打の中に、その人の危(あや)うさ、汚さ、緩(ゆる)さ、曖昧さ、臆病さが入り交じってくる。
  ・・・・・・・・・・
だから雀鬼会ではその捨て方、切り方が少しでも美しくなるよう、牌を切る練習ばかりしている。まずは動き、そしてその次に考え方、思考、動作といった心身の両面で、できるだけよい形で牌を切れるように、メンバーたちは日々鍛錬に励んでいる。
切り方を練習していると、だんだん麻雀に対して美意識というものが出てくる。動作を磨いていくことで徐々に思考にも美しさが出てくるのだ。


視点は身長という肉体にも影響を受けるように、
体の動作を磨くことによって思考が磨かれるのは当然です。
これが日本古来の所作、動作、礼儀作法を重んじた “道” の世界です。

しかもその動作は、捨てる時のものが最も大切である、
このことも深く納得できます。

これはトイレ掃除にも通じます。
自分や人が “捨てた” 排泄物の処理を美しくする。
しかも自らの体を使った動作でもって ・・・ 。


これから迎える新しい時代、
これまでとは違った視点を持ち、新たな世界を発見していきましょう。

2012.10.4 Wednesday  
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