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5月22日 読書と掃除


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インドに来てから一日中半袖シャツ一枚で過ごし、
夜中もそのままベットに横になり、
天井扇の風を浴びながら、シーツもかけることなく寝るのが習慣になっています。

一日か二日、蚊に悩まされた時は、
シートで足先から腰ぐらいまでをくるんで寝たのですが、
めんどくさくなってすぐに止めてしまいました。

けれども昨夜は少し肌寒さを感じ、
夜中に天井扇のスイッチを止め、シーツを肩までかけて眠りました。
自分の体が変わったのではないと思いますので、
たぶん少し気温が下がっていたのでしょう。

朝は熱々のアッパー、
これにジャガイモ(だと思う)と卵のたくさん入ったカレーをかけていただきました。



午前中はドアの鍵がかからないのでどこにも出て行くことができません。
朝寝をし、その後で昨日片付けたゴミを枯れ葉と一緒に外で燃やしました。



かまどの火と同様、たき火をし、火が少しずつ燃えていく様は、
いつまで見ていてもあきることがありません。
すべてが自然と同化しているインドでは、
たき火の火ひとつにも深い諸行無常の世界を感じます。

お昼ご飯はデザートにジャックフルーツをいただきました。



暗かったので写真がボロですが、左側の大きなジャックフルーツを切ると、
中にたくさんの房が入っています。
構造としてはザクロのような感じ、実の色と形は黄色くビワのようですが、
ツルンとしていて歯応えのあるものです。

メインディッシュはもちろんカレーです。
やはり野菜たっぷりのものはヘルシーで食べやすく飽きがきません。



昨日かまどで炊き、昨夜の夕食でもいただいたカンジーも食べました。



インド版のおかゆのようなものかもしれません。
今日の夕食の時、ティーチャーが少し風邪気味らしく、
このカンジーだけを食べていました。

オレンジ色のふりかけのようなものは、
ココナッツの白い果肉とチリなどを混ぜ合わせたもので、
なかなか美味です。



ドアの鍵をなんとか外からもロックできるよう自分で直し、
自転車に乗ってコッターラムのネットカフェへと向かいました。

ネットカフェの隣にある額などを売っているお店です。



インドで日本にないものを見ると、
「日本だと何に相当するんだろう?」といつも考えるのですが、
インドの神々の絵や図柄は、日本の仏壇、神棚以上に身近なものです。
日本人の持つ八百万の神の思想は、胸の中にあって形に表すことがないのですが、
インド人は古来からのインドの神々とともに特定の神を拝み、
それを常に形として身近に置いておくという習慣があります。

ネットカフェでは今日も1時間ほど過ごしました。
後ろのパソコンでは、
なにやら選挙ポスターのようなものを画面を見ながら制作中です。
ここはちびっこから女子学生、大人の仕事まで、
いろんなことをやっているようです。

ネットカフェの入り口を出たところから、
道路向かい側のセメント屋さんでセメント袋の下ろし作業をやっているのが見えました。



作業をしているおじさんたちは、
顔を含めて全身がセメントの粉で大変なことになっています。
先にも書きましたが、強アルカリ性のセメントの粉は皮膚をすごく荒れさせ、
これには慣れというものは関係ないと思うのですが、
一体どうなっているのでしょう?


ホームに戻り、一階から座りやすい椅子を出して読書をしばらく楽しみました。
落ち着いて本を読むのはインドに来て初めてです。



風は心地よく、椅子も座り心地がいいのですが、
外に座っているとアブというのか子バエというのか、
そんなのがやたら飛んできてなかなか落ち着きません。

それでもしばらく椅子に座って本が読めたことは収穫でした。
本はその内容が、その時々の読んだ状況とともに頭の中に記憶されます。
素晴らしきインドの日々とともに、その本の内容は私の宝となるでしょう。


読書が一段落したので、
カメラを持ってホームの周りを散歩しました。

ホームの作業場で、椰子の葉の仕分け作業をしています。



椰子の木は、実の中身も殻も、そして葉も、
すべてが資源として活用されます。
作業をしているのは、昨日部屋を掃除してくださったお手伝いさんです。

そこでもう一人のおばさんとともに、その方の子どもたちが二人遊んでいました。



小さい弟さんの方は外国人を見慣れていないのか、
最初私を怖がっていましたが、最後はちゃんと握手をしてくれました。

私は、子どもたちにはたいてい珍しがって喜ばれるのですが、
中にはこんな風に怖がる子どもさんもいるのです。





家の玄関にレンゴリを書いている女の子を見かけました。



まだあまり慣れていないのでしょうね、シンプルな図柄です。



そのすぐ近所には寺院があります。



インドでは、住宅地の中に寺院が周りと溶け込んでいるといった感じで建っています。
敷居も境界もない、家の庭や道路の延長といったところに
祈りと信仰の場が存在します。
日本の古い街角にあるお地蔵さんといった存在なのかもしれませんが、
大きさはインドの寺院の方がだいぶ巨大です。





小さな子どもが庭先に腰をかけ縫い物をしています。



この子たちは何かのゲームをしているようです。



四つの貝殻をサイコロにし、駒は木の実です。



順番に貝殻を投げて、駒となっている木の実を動かしていました。

この女の子たちは、補助車の付いた自転車を交互に乗って遊んでいます。
姉妹のようです。



インドの何気ないごく普通の村の様子を見て歩き、
彼らの生活を肌身で感じ取るのは楽しいものです。



家があり、その横に牛舎があり、
牛は二頭いて、奥の牛はホルスタインです。
以前インドでホルスタインは珍しいと書きましたが、
その後何度も見かけますのでそうでもないようです。
ここで訂正しておきます。



インドの道路は公道であり、また私的な作業場のような使い方もよくします。



工事が終わって建築資材を積み込んでいるところのようですが、
この時後ろから大きなバスが来て、慌てて資材を道の脇にのけ、
車も道路の端っこに寄せていました。

インドでは中央車線もあってないようなもの、
対向車が来ていても、中央車線を大きく越えて追い越しをかけることは日常です。
道路は使いたい人が使いたいように、
その時々の状況に合わせて自由に使う、
日本人の目から見ると、ルールのないのがルールのようです。

この子たちはちょっと私を怖がっていましたね、
ごめんなさい。 (^^ゞ



ある家の庭先で、仕事をするお母さんと横にいる裸の赤ちゃんが目に入りました。
カメラを構えていると嬉しそうにされるので、
ちょっと庭に入っておじゃましました。



写真を撮ると、お母さんが赤ちゃんにドレスを着せるから
写真をもう一度撮って欲しいと言われます。
  (タミル語は分からないので、身振りでそう判断したということです)

お母さんが大急ぎで赤ちゃんにドレスを着せ、お化粧をしています。
その横でそれを見つめるお姉ちゃん。



赤ちゃんは泣いてしまいましたが、
お母さんがなんとかカメラの方を向けようと懸命に言葉をかけています。



お母さんとツーショットをと思いましたが、
お母さんは恥ずかしいようでした。



お母さんは私にいろいろ話しかけてこられましたが、
言葉が一切分かりません。
たぶん撮った写真が欲しいのではないかと思います。
私も手元にプリンタがあれば、すぐにプリントアウトするのですが、・・・
と思ってよく考えると、町で「印刷します」みたいな看板を時々見かけます。
今度USBメモリーにデータを入れて持って行ってみましょう。


部屋に戻り、床を全部きれいに水拭きしました。



二階は全部で二十畳ぐらいはあるでしょうか、
手持ちのバスタオルを買ってきたハサミで半分に切り、
「ありがとうございます」と水に言葉をかけながら掃除していきます。
やっぱり「ありがとう」は、タミル語よりも日本語の方が思いがこもります。

いい洗剤があれば買おうと思ったのですが、
昼過ぎに行ったコッターラムの町には、
よく分からない合成洗剤がいくつか並んでいましたが、
どれも今ひとつ魅力に欠けたので買いませんでした。

元々がキズのないきれいな床は、水だけで磨いてもとてもきれいになります。
これでもう床に寝っ転がっても大丈夫なぐらいです。

もっと早くやっておけばよかったと思うのですが、
これもひとつひとつが気づきの過程です。

インドでは、日々インド人たちの生活に触れ、
言葉にならないたくさんの気づきを与えてもらいました。
その思いをこれからどのように活かしていくかが今後の私の重要な課題ですが、
「基本はすべて同じである」
このことを教えてもらえたことは、
私にとってこれからの大切な財産となるでしょうし、
またしていかなければならないことです。


夕食はヘルシーにご飯と野菜の、これもカレーというのでしょうか、
それをかけていただきました。



毎日淡々とした暮らしの中で、
日本では感じられない気持ちのゆとりを楽しんでいます。 ^^☆



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