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メールをお待ちしています
インドから、どうしても日本の人たちにお祈りしてほしい内容があるので、メールさせていただきます。
ぶしつけなお願いですみません。
日本にはおそらく情報が行っていないと思うので、敢えて伝える必要があると思いました。
世界の片隅で起きている出来事の一つと思わず、自分の兄弟が直面している現実と考えてくださるようにお願いしたいし、僕もそのように考え、祈るように神様に示されています。 (中略)

祈ってほしいのは、オリッサという州で起きている、クリスチャンの迫害についてです。
ヒンズー原理主義者の武装集団が次々に教会を燃やし、クリスチャンを襲っています。

教会やクリスチャンの家に火がつけられ、男性は縛られ、3歳以上の女性は全員レイプされてから殺され、それを男性は目撃させられてから、殺されます。人間が生きたままガソリンをかけられて火をつけられています。
体をバラバラに切断されたクリスチャンもいます。
犯行は計画的で、オリッサからクリスチャンが逃げられないように交通網も遮断されているそうです。
クリスチャンができるのは森に逃げることだけですが、森には毒蛇や猛獣がいて非常に危険です。
これほどのひどい迫害は、最近にもあまり類を見ないそうです。

インドの警察や政府は、ヒンズー寄りの世論で動くので、事がいったん収まるまでは何の行動もおこしません。
オリッサで始まったこの迫害は、他の州にも飛び火していて、デリーからそう遠くない場所でも教会が燃やされました。
僕がいまいるデリーでいつ同じことが起こってもおかしくないそうです。 (後略)


インド・オリッサ州地図

これは私の元に転送されてきたインドの首都デーリーに滞在中の陣内俊牧師からのメールです。

オリッサ州はジャングルの中に村が点在する森林地帯が多く、それぞれの村の実態を把握するのが困難です。
またオリッサ州のキリスト教信者の多くが、カーストという身分制度最下層である不可触民(アンタッチャブル)と呼ばれる人たちであることも、警察が真剣に捜査をしない要因となり、正確な被害の実態は分かっていません。

私たち日本人の感覚では理解しがたいことですが、インド社会において、カースト最下層の人々は家畜や犬猫のような動物並みの扱いを受けているのです。

『英語のクリスチャントゥデイによると300以上の教会が壊され約50人が殺され約5万人が森に逃げている』とのことですが、実際はこれよりもはるかに大きな被害が出ているものと予想されます。


インド西部のオリッサ州は、鉱物資源の豊かな土地で、近年インド内外の大企業がその資源目当てに進出してきており、その資源が眠るジャングルを生活の拠点とするカースト最下層の住民たちとたびたびトラブルが起こしていました。
またインドにおけるキリスト教の布教というのは、ある種西洋文化を流布するための植民地政策といった側面があり、礼拝時にはインド伝統の衣装ではなくズボン、スカート着用の義務化、インド人の象徴ともいえる額に粉をつけるビンディの禁止、また入信と引き替えに経済支援を行うなど、インド独自のヒンズー文化を重んずる人たちからは疎ましく思われるような面があったようです。
それと同時に、これまでカースト最下層の動物のように扱ってきた人たちが、キリスト教という異文化の元に経済的、文化的に豊かな暮らしをするようになってきたことに対して妬みの感情があるのではないでしょうか。

インドの文化や伝統はきわめて奥が深く、私のようにその表面をのぞいたことしかない人間には、
真相をうかがい知ることはできません。
けれどもいかなる理由であれ、このように残忍な虐殺、迫害行為は決して許すことはできません。

ニュースによると、キリスト教運営の孤児院にも襲撃の魔の手が及んだとのことです。
この2月、3月に私が訪れたインド最南端タミルナード州の孤児院も、ドイツYMCAから支援を受けているキリスト教の孤児院です。
あの光り輝くような笑顔を見せていた子どもたちが暴徒に襲われ、蹂躙、殺害されるなんて・・・、
一人一人の子どもたちの顔を思い浮かべ、もう想像するだけで胸が張り裂けそうです。

インド在住のお坊さんに電話で確認したところ、ハッキリとは分かりませんが、タミルナード州では今のところクリスチャンに対する迫害行為は行われていないようです。
けれども自分の接したタミルナードの子どもたちが無事だからいいというわけではありません。
実際にオリッサ州では多くの子どもたちが迫害を受け命を落としているのですから・・・、その子どもたちの悲しみ、苦しみ、いかほどのものだったでしょうか・・・。

この度の迫害事件は、自分の身近に感じるところで起こったことで、私も真剣に受け止めざる得ません。
しかし冷静に考えてみると、このような迫害、虐殺行為は、近年でもチベット、カンボジア、アフリカ、中国、・・・過去を遡れば数え切れないほどの国や地域で行われていたことであり、極論すれば、有史以来地球上で紛争の無かった時代など無かったと言えるほどです。
私たち人類は、同胞を殺し合うという無益な行為の連鎖をなぜこれまで止めることができなかったのでしょうか。またどの様な方法をもってすれば止めることができるのでしょうか。

これは人間の持つ性(さが)のようなものであり、容易に解決が付くものではありません。
しかし人類は地球上に巨大な文明を築き上げ、核ミサイルのスイッチをひとつ押すだけで、地球全体を何度も破壊し尽くせるほどの強大な軍備力を持っに至りました。
それゆえ、この(地球規模で見れば)小さな憎しみから生じる諍いを止めることができなければ、それから発展していく人類を壊滅せしめるような戦争の勃発を止めることはできないのです。

私たちの未来は、私たち自身の手にゆだねられています。
肥大しきった文明の上に暮らす私たちに、与えられた選択肢はふたつです。
この憎しみの連鎖を断ち切り、人類すべてが明るく共存できる社会を築くのか、
または憎しみの火種がいつしか大きくなり、私たちすべての命を奪う紛争の時をただ待つのか、
選択肢はこのふたつ、中間の選択肢は存在しません。


文明法則史学の観点で歴史の流れを眺めると、800年ごとに訪れる東西の文明転換期には、世界各地で民族紛争が多発するのは一種の自然現象で、今はまさにその時です。
過去の文明転換期には、大きく価値観が変わろうとする中、新旧さまざまな価値観を持った民族や集団がぶつかり合い、多くの血を流しながら新しい価値体系を築き上げてきました。

この転換期において最もやっかいなのが、自分たちの持つ宗教、社会、価値観を唯一絶対のものと考える原理主義、至上主義という硬直化した思想です。
このたびのインドでの迫害事件の首謀者であるヒンズー原理主義の他、イスラム原理主義、またキリスト教原理主義など様々なものがあります。

原理主義というものは、その価値観が広がりをみせる夏の季節には、強力な求心力が組織を勢いづかせ、大きな益をもたらします。
けれども時代が変化をし、その価値観に陰りが見えはじめるようになると、その強力な求心力が裏目に出て、他の価値観を持つ集団を攻撃し、挙げ句の果てには、このたびのように他の価値体系の中に生きる人たちを殺してまでも、自分たちの価値観、社会を守ろうとすることがあります。

人はみな、自分の守り信頼する価値観が、もっとも理想的な正しいものだと信じようとするものです。
しかしすべての考え方の中で『命が最も尊いものである』、これにまさる思想、価値観はありません。

原理主義とまでは呼べないまでも、多くの人たちが絶対と考える数多くの価値観が、移ろいゆく歴史の中で崩壊、消滅していきました。
近年では東ヨーロッパやソ連の社会主義の崩壊が最も印象に残っていますが、中国の共産主義も事実上崩壊したようなものであり、その対極ともいえる資本主義も投機的な道をひた走り、完全に制度疲労を起こしているのは多くの人の認識が一致するところです。

宗教もまた同様でしょう。
誤解を恐れず独断で述べさせていただくならば、世界的な巨大宗教も新興宗教も、その教義内容を検証すると、ほとんどすべての宗教は、その宗教の生まれた地域の民族性、気候風土、時代を色濃く反映したものであり、それを受け入れる時代や地域によって、その価値や意味合いが大きく変化します。

だから価値がないと言っているのではありません。
夏には扇風機が、冬にはこたつが必要なように、季節に応じて役立つものがあるように、どの宗教もある時代、ある地域において大きな役割を果たしてきていることは事実です。

ただこれを絶対的なものととらえると、それがいつしか必ず争いの火種となり、憎しみの連鎖へと繋がっていきます。
禅の世界に『不立文字』(ふりゅうもんじ)という言葉があります。
本当に深い真理は、体験を通して感じることしかできず、言葉では表現できないという意味です。
私はこれは真理だと感じています。
どのような素晴らしい宗教であっても、形ある教義や組織を作った時点で普遍的なものではなくなり、
様々な時代や地域、受け取る人の個性によって、その価値は大きく変化するのではないでしょうか。
また普遍性を捨てることにより、多くの人々に受け入れられ、広く流布するといった側面もあるのかもしれません。

つまり絶対的な価値とは、自分自身の持つ命の中にのみ存在するものであり、
その周りを取り巻く様々なモノ、思想、社会、宗教といったものの価値は、そのものの中にあるのではなく、自分がそれとどの様に関わるかという関係性の中から生じてくるものではないかと考えます。


インドの精神文化は、本当にわけが分かりません。
インドのヒンズー教の思想では、キリスト教も仏教も、またイスラム教もヒンズー教の一部だととらえてしまうほど大きな包容力を持っています。
実際仏教の開祖であるお釈迦様も、ヒンズー教の中ではクリシュナ神の化身として崇めているほどですが、このたびのクリスチャンに対する迫害、過去幾度となく繰り返されてきたイスラム教徒との暴動、・・・ヒンズー教は対立と融和という、まったく相反する二面性を持っているのでしょうか。

私の訪れたタミルナード州の日本山妙法寺(日蓮宗)の法要の中で、インド独立の父マハトマ・ガンディーの提唱した『世界諸宗教の祈り』が行われていました。
インド地元のヒンズー教、キリスト教、イスラム教、いろんな宗教の指導者たちが、みな順番に仏壇(祭壇)の前に座り、それぞれの宗教の言葉で平和への祈りを捧げます。
これなどは日本ではなかなか見ることのできない、宗教の理想的な姿のひとつであり、インド文化の持つ素晴らしさの表れだと思います。

タミルナード州で父親の代から孤児院を運営するスギルタンファミリーとはじめて会ったのは、彼らが何十年来懇意にしている日本山妙法寺のお上人さんたちに同行し、日本に来た時です。
私が運転する車で二週間あまり全国各地の仏舎利塔を回り、とても楽しい旅をしました。
生まれながらのクリスチャンである彼らですが、「キリスト教は素晴らしいぞ・・・」などとつぶやきながらも仏舎利塔に頭を下げ、朝夕一時間以上に渡るおつとめでは、団扇太鼓を片手に「南無妙法蓮華経」を唱え続けていました。

原理主義者からすると、このようなあやふやな信仰姿勢は許されざるものなのかもしれませんが、
この寛容さこそが、宗教を偏狭性という負の側面から解放し、魂の救済という真の役割をまっとうさせる唯一の道だと感じています。


尊ぶべきは命。
命とは、私たち、あなたたちの肉体、魂、霊の持つ命であり、周りのすべての人たちの持つ命、
動物、植物、自然、大地、すべての生けとし生けるものの持つ命のことです。

インドからの悲報を耳にし、社会の不条理さを感じると同時に、遠い日本にいて何も手を差しのべることができない己の無力さに強い悔しさを覚えました。
日本にいる私に何ができるのか、深く考えて得た結論は、今日本で自分に与えられている役目を真剣にまっとうすること、同じ過ちを繰り返さないようこの事件から何かを学ぶこと、そして祈ること、ただこれだけです。

私個人の考えと行動で、世界全体を救う道筋を示すことはできませんが、今現在インドで起こっている事実、それについての私の思いを知っていただきたく、つたないレポートをまとめました。

このレポートから皆様方が、何かを感じ取るきっかけをつかんでいただければ幸いです。
そして迫害を受けているインドの人たち、その他周りの多くの人たちのため、わずかな祈りでも捧げていただければ、これにまさる喜びはありません。

明るい未来を築けるかどうか、その選択権は私たち一人一人が持っています。

    たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私はリンゴの木を植える。
                              マルティン・ルター


2008年9月26日
南インドの子どもたちを支援する会
               酒井 伸雄

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