旅の途中

インド全土の五週間以上続くロックダウンは5月3日に解除予定です。
そしてそれ以降は飛行機も国内線は就航予定となっていて、インド最大の航空会社エアインディアも5月4日以降のチケット予約を開始しました。

けれど国際線はそれ以降もさらに就航を待たねばならず、インドから通常の民間機が国外に飛び立つのは6月1日以降になるということが今日ニュースから分かりました。

これは中央政府発表のことで、今後ウイルスの感染拡大次第では、延びるか縮まるか、さらに変更になる可能性があります。

インド国際線

幸い自分はインドに知り合いがたくさんいて、その方たちにお願いすれば泊まるところは確保できますが、日本の感染拡大や動揺を見るにつけ、今自分の置かれている極めて安全な環境とどう折り合いをつけ、どう感じ取っていけばいいのか、それをいつも考えさせられます。

極めて個人的なことですが、自分はこうしてほぼ毎年インドに来ること以外、あまり広島市外、県外に出ることはありません。

けれどなぜか不思議なことに、広島で大きな災害が起こる時は、広島の外にいる確率が極めて高いのです。

平成三年に広島を直撃した台風19号の時は東京、平成13年の芸予地震の時は長野、平成26年の土砂災害の時はインド、平成30年の豪雨災害の時は茨城と、地元広島の災害はいつも外から見るというのが当たり前になっています。

このたびのコロナ禍は広島だけの問題ではありませんが、2月半ばに広島を離れる時は、これはより大きな災害に発展するであろうという予感は十分にありました。
けれど自分を南インドに導いてくださった大切なお寺の法要があり、これは行くべきだとうい心の声と、それに至るまでの流れを感じ、渡印を決意しました。

これはこじつけかもしれませんが、2月にインドに行っている間の家の家賃を払っておこうと思い、銀行で二ヶ月分の家賃を振り込みました。
けれどうっかりしてすでに振り込んでいることを忘れ、二回同じ振り込みをしてしまったのです。

つまり3、4月分を振り込むつもりが、6月分まで振り込んだということです。
その時に「これはもしかして・・・」という思いが頭によぎり、偶然か必然か、実際に6月まで帰国できないことに、今のところなっています。

インドで自分が今いるところと日本では置かれている状況が真反対です。

日本はインド以上に感染が拡大しているものの、国民への規制は自主性に任せたお願いレベルであり、従順な国民性と高い衛生環境の下で、なんとか感染拡大を食い止めようとしています。

インドは一度感染が広まるとそれを食い止めるのが難しい劣悪な衛生環境と国民の意識レベルであり、そのため初期の段階から罰金や体罰といった厳しい規制で臨み、今も広がる感染に歯止めをかけようと必死になっています。

日本の都市部は3密を避けるよう様々な工夫やお願いをしていますが、それでも方々でクラスターが発生し、感染経路不明な発症も増えています。
現実問題、都市部ではすべての人が完全に3密状態を避けるのは難しいようです。

インドも感染の広がりは同様ですが、自分の今いるところは極めて環境に恵まれ、快適に安全な暮らしをし、まさに別天地です。

その別天地から日本や世界の状態を知り、そこで感じたことをネットを通して発進しています。

今世界中の人が、武漢肺炎の影響で大きく生活環境が変化しています。

その変化している中で、今しか感じ取れないことを感じ取るというのは、武漢肺炎に対する積極的なアプローチのひとつです。

自分は日々読書、特に古い名作に親しんでいます。
これは大好きな三木清の「人生論ノート」その「旅について」の一節です。

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即ち旅はすべての人に多かれ少なかれ漂白の感情を抱かせるのである。解放も漂白であり、脱出も漂白である。そこに旅の感傷がある。

漂白の感情は或る運動の感情であって、旅は移動であることから生ずるといはれるであらう。それは確かに或る運動の感情である。けれども我々が旅の漂白であることを身にしみて感じるのは、車に乗って動いてゐる時ではなく、むしろ宿に着いた時である。漂白の感情は単なる運動の感情ではない。旅に出ることは日常の習慣的な、従って安定した関係を脱することであり、そのために生ずる不安から感情が湧いてくるのである。

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外出もままならず、ましては旅行など夢のような非現実的な今だからこそ、世界の人は、本当の意味で今旅をしていると言えるのではないでしょうか。