古典と触れる

ここロックダウン中のインドの日々は、ネットを見たり本を読んだり、これまでとはまったく異なる時間の流れと環境の中で、自分を見つめる旅をしています。

本を読むといっても、今回紙の本はガイドブックを除けば英語のテキスト数冊しか持ってきていません。

英語のテキスト

インドにはいつも何冊かの本を持ってきても、読まずにそのまま持ち帰ることが多かったのですが、今回はこの環境で逆にもっと持ってくればよかったと感じ、そのお陰で英語学習はだいぶ進みました。

けれどやはり日本の普通の本が読みたいという思いは高まります。
いつも思うことですが、ネットの情報と本に書かれていることとでは重みが違います。
本から得たものは、心にしっかりと響き残っていく、そう感じます。

ネット情報は嗜好性の高いおやつのようなもので、それだけでもお腹いっぱいになりますが、それでは薄っぺらくてバランスの悪いものになってしまう、そんな気がします。

今は便利な世の中になり、スマホやタブレット端末を通して電子書籍が読めるようになっています。

自分もアマゾンの電子書籍Kindle本を三十冊ほどダウンロードしてスマホとタブレット端末のiPadに入れていますが、日本ではつい読み慣れた紙の書籍に手が入ってしまい、なかなかKindle本を読む機会がありません。

けれどここインドでロックダウンに遭っている今はそんなことを言ってはおられません。
なんとか普通の本を読みたい一心で、Kindle本のページをめくりました。

今日読んだ本は森鴎外の「高瀬舟」です。
著作権の切れた昔の名作は、Kindle本として無料でダウンロードできるので、だいぶ以前に気に入った名作小説を十冊ほどダウンロードしています。

昔の小説、古典と読んでいいと思いますが、それを選んだ理由は、日々消耗品のごとく消費されるネットの情報と違い、その対極にあって文字に重みと深みがあると考えたから、そして今その文字を目の中に入れたいと強く思ったからです。

やんごとなき事情で弟に手をかけ、島流しになる途中の京から大阪へと流れる舟中で交わされる罪人喜助と同心庄兵衛の会話、その静かな佇まいの中に、互いの生き様を対比させる描写がただただ心に染み入ります。

現代生活を彩る便利な機器などまったくない百年も二百年も前の日本の暮らし、そこで起こったたったひとつの出来事の中に深い人生の機微を感じさせるというのは、膨大な情報の中で一種の感覚麻痺になっている自分にとって新鮮な驚きと感動でした。

桜の花びらが散る夕暮れの高瀬川、ぼんやりと灯りがともり、揺れる川面が目に浮かびます。

長期間のロックダウンが続くインドで、大気が浄化されたことによって数十年ぶりに遠くヒマラヤ山脈が見渡せるようになったというその報告のように、今こそ、今この時期だからこそ静かな澄んだ目で自分を見つめ直すことが必要なのではないでしょうか。

ヒマラヤ山脈

それを助ける大きな役割を果たすのが、古典と触れることだと今日強く感じました。

もう二ヶ月近くインドにいても、ネットのお陰で日本のことはよく分かります。
facebookもそこには身近な人たちの情報が載り、大手ポータルサイトからは知り得ない貴重な情報へのリンクを見ることがあるので、なるべく毎日見るようにしています。

けれどそこに流れる情報は本当に薄っぺらいですね。
誰とどこで何を食べた、遊んだ・・・。
いろんな物事を批判する書き込みも多く、役立つ情報の多くが人様からの借り物、リンクです。

それはまるで派手な色彩と音楽で感覚を麻痺させ、香辛料をたっぷり使った料理を美味しいと思わせて消費させるファストフード店のようで、そこにどっぷりと浸かっていると、そのことが当たり前すぎてそのことに気づかないでしょう。
一種の茹でガエルのようなものです。

情報化は現代社会の流れであり、それを否定することはできません。

ただそれだけではいけないということ、外からの情報に全神経を集中させてしまうと、一番肝心な自分のことが見えなくなってしまいます。

今大切なのはたくさんのものを取り入れることではなく選別すること。
増やすことではなく、本当に大切なものを残してそれ以外を手放すことです。

その大切なものはもうすでに自分の中に持っています。

そのことに、きっと古典は気づかせてくれるでしょう。

音楽の古典、クラシック音楽も素晴らしいですね。
今年もここインドで、昨年に引き続きサラ・チャンの演奏するブルッフのヴァイオリンコンチェルトを幾度も繰り返し聴いています。