生態系

ひとつのことをアウトプットすると、それに関連したいろんなことが頭に浮かんでくることがよくあります。

先の「命の教育」の中で、日本には自然がないということを書きました。
そのことはそれ以前にも書いたことがありましたが、ここでいう自然とは、生命の営み、その流れであり、循環サイクルのことです。

これは後でよく考えてみると、自然と言うよりも、生態系と表現した方がより適切であるということに気がつきました。

自然とは、大きな山並み、それ全体を自然と呼ぶことができます。
またそこに生えている一本の木、草、それもまた自然のひとつの姿です。

それに対して生態系は、そういった自然が互いに共生し、循環している姿、流れ、その系(システム)のことであり、生命持つもののひとつひとつの役割が見えるものです。
その生態系が、今の日本では感じられにくくなっています。

自分が生まれたのは大阪府豊中市という、わりと多くの家が建ち並ぶ住宅地です。
そこにいたのはもう半世紀ちょっと前ですが、当時は家の近くの牛乳屋に行くと、店の裏には牛舎があり、あの牛の持つ独特の匂いが漂っていました。
たぶんその牛の搾った乳も店頭で販売していたのでしょう。

今は牛乳屋という店自体が絶滅危惧種であり、あの牛乳配達のチャリンチャリンという牛乳瓶がぶつかる音も長年聞いた記憶がありません。

ちなみにインドでは、こんな風にバイクの荷台に大きなミルクタンクを積み、毎朝牛乳を配達しています。

インドの牛乳配達

インドの牛乳配達

生態系は、大きく言えば地球がひとつの生命を持った生態系であり、その地球生命体をガイアと呼びます。
そしてこの生態系は、入れ小細工のように、さらに細かく分解していくことができます。

マトリョーシカ

けれど日本にある自然はそれぞれが分断され、それらが共生・循環する生態系のあり様はほとんど見ることができません。
その要因のひとつが、食料もエネルギーも自給率が低く、生態系の大切な要素を遠く外国に依存しているということ。
さらに大きな要因が、文明の持つ効率化によって、生態系の系(システム)を大きく広げられていることです。

昔は方々の住宅地の中にもあった牛舎が姿を消し、大きな牛舎が住宅地とは離れたところに建てられ、そこで採られた牛乳は大工場に出荷されてパック詰めされ、トラックで各地に輸送されます。

これは肉でも野菜でも、すべてのものが同様です。
ですから海外の珍しい食べ物でも、大手スーパーやネットで注文すれば手に入る代わりに、地元の旬の食材はなかなか口に入りません。

『地産地消』という言葉をよく耳にします。
これはまさに狭いスケールでの生態系の推奨ですが、これがわざわざ言われるということは、それだけその“系”が消えかかっているということです。

昔の日本だったらこんなことは絶対に言う必要がなかったでしょう。
現在のインドの村も同様です。

自然の営みの生態系と同様に、地方の文化もまた消えかかっています。

日本は狭い国土ながらも海に囲まれた細長い列島国で、地方によって独特の気候風土や歴史を持ち、その土地ならではの文化があります。
そしてその土地の町並みには、その土地の文化を感じさせる風情というものがあったものです。

けれど今は残念ながら、日本全国どこに行ってもその町並みはほとんど変ることがありません。
小さな個人商店の多くや商店街は淘汰され、代わって全国チェーンのショッピングモールが進出し、大きな幹線道路沿いには、赤や黄色といったケバケバしい色彩の外食産業、ドラッグストアー、家電量販店、コンビニといった店が建ち並び、その一角を写真に収めても、それがどの地方で撮られたものが判別するのは困難です。

流通経路が大規模化される近代化は文明が必然的に行き着く先であり、そこには当然大きなメリットがあります。
昔と比べると、どんなものでも一日24時間、一年365日、安易に安価で手に入り、本当に便利な世の中になりました。

ではそれに対してデメリットは何なのか、パッと思いつくのは、地方文化の崩壊、地元小売業の衰退、その程度でしょうか。
なかなかすぐにその問いに答えることができません。

なかなか答えることはできませんが、そのすぐに答えを導けないということそのものが、非常に大きな危機を招く要因です。

人間は、突発的に迫り来る危機には敏感です。
歩道を歩いていて目の前に車が近づいてきたら、だれでもすぐに避けるでしょう。

けれどその危機が緩慢なスピードでやって来るとしたら、いつかいつかと思うばかりで、人間はなかなかそれを回避する行動を取ろうとしません。
自然環境の破壊などがその最たる例で、遠い未来の危機については実に無頓着です。

農業を効率化する遺伝子組み換え食品を見ていただければ分かるように、科学、近代化、効率化のいいところは、そのメリットが明らかで、誰にでも簡単に理解できる点です。
そしてその反面、デメリットとしては、そのデメリットが短期的に現れず、また容易に数値化できないので、ついそのデメリットについては目をつむり、メリットばかりを考えて、そちらの方向に突き進んでしまうことです。

遺伝子組み替え農産物、種子が発芽をしない一代限りのF1雑種、それらは効率の高い農業を行っていくにはいいのでしょうが、そんな自然に反した農作物を日常的に人間が食べるようになると、それがどんな影響を与えるのか、考えただけでも空恐ろしく感じます。

けれどその危険性は、短期的す数値化、つまり科学的に証明できないため、それを推し進めることによって恩恵を受ける大手種子会社に押し切られてしまうのです。

茹でがえるという例え話がありますね。
少しずつ温度が上がる鍋にのんびりと浸かっていると、最後熱湯になって脱出しようとした時には茹で上がってしまって鍋から出られないという話です。

自分も、日本では生態系が見えないという危機感は、日本にいる時には日常に麻痺してしまって感じません。
日本とはまったく環境が異なるインドに行き、そこで生き生きと暮らす人や動物たちを目にするから、そこから日本に戻った時、その日本の姿に大きな違和感と危機感を覚えるのです。

効率化のメリットは生産性が高まることです。
これはそれを支える体制が安定している時には大きな問題を生じませんが、いったんその体制が崩れた時は、壊滅的に大きな損害を受ける可能性があります。

環境変化に柔軟に対応するには多様性が必要です。
少し前、小池都知事が選挙の時に「ダイバーシティー」と唱えていましたが、それが多様性であり、安定ではなく変革を求めるならば、効率化よりもこの多様性が必要です。

効率化と多様性は相反する要素の多いものです。
過去日本が先進国に仲間入りするために高度経済成長を続けてきた時は、大量生産大量消費で効率化を推し進めることが善でしたが、今のような低成長で地球環境に配慮を求められ、かつ経済の発展が必ずしもそこに暮らす人々の幸せに直結しないと気付き始めてきた今の時代は、人間本来の自然な姿を振り返り、多様性をより重視しなければならない社会になったのだと感じます。

その自然な姿というのが、生命の循環サイクルが見える生態系、それを身近なところで維持することです。

話がぐっと飛びますが、先の参議院選挙で立花孝志党首率いる「NHKから国民を守る党ヶが議席を獲得し、投票率から政党要件を満たすまでになりました。

立花氏のやり方には賛否両論ありますが、自分は彼の議員としての行動が、閉塞し、悪い意味で安定してしまっている今の日本の社会や政治のあり方を変えてくれるものと大いに期待をしています。

立花氏を批判する意見をネットで散見しますが、その多くが感情論であったり、彼の言うところの“既得権益者側の人間”であるように思います。
(既得権益団体である大手マスコミは完全に無視ですね)

彼の言動を下品だという意見は自分もよく理解できます。
けれどそれよりも大切なのは、そう行動する彼の真の狙いは何なのか、品がいい悪い、好きか嫌いかという以前に、その行動の狙いと正当性に目を向けるべきだと思います。

今日アップされたこの動画を見ると、立花氏の真意がよく分かります。

上の動画のサムネイル、面白いですね。
これは多くの国会議員が地元に帰ったら選挙で当選するために、本来の仕事である法律立案ではなく、盆踊りなどの地元行事に参加し、有権者のご機嫌取りをしていることを揶揄したものです。
この意見には全面的に賛成です。

立花氏が既得権益を潰すということとともに、直接民主主義についても動画の中でたびたび述べています。
それは取りも直さず、今の代議員制度に支えられた間接民主主義が有効に機能していないからです。

彼の主張するNHKのスクランブル化は、複数のアンケートによって明らかなように、過半数の国民が賛成の意を表しています。
にも関わらず、それが実現することはおろか、政治の場で討論されることすらありませんでした。

他にも音楽著作権管理のJASRAC、議会の定数増しかり、間接民主主義の場において、国民の民意が反映されないことが多すぎます。

これは上の動画で語られているように、既得権益者たちがみな互いの利益を守り合う構図ができていて、その構図の中の力やお金の流れが、本来の間接民主主義の流れを歪めているのです。

民意が反映されない歪んだ民主主義がなぜ生まれるのか、その理由は、これまで既得権益者であった大手マスコミが情報の流れを牛耳っていた時代はほとんど分かりませんでした。
けれどインターネットの登場で国民誰もが情報発信をすることができ、立花氏のようなその利権構造に詳しい人物が議員となり、かつYouTubeというネット媒体で真実を話してくれるから、国民誰もがそれを知ることができるようになりました。

間接民主主義は、多くの民衆の声をより効率的に政治の場に反映させる流れ(系)であったのが、それがあまりにみシステム化しすぎてしまい、その流れの中に新たな利権構造という流れ(系)が加わり、本来の流れを阻害するようになりました。

その利権構造を破壊し、本来の流れを取り戻そうというのがリアルタイムに双方向の意見を直接やり取りできるインターネット、YouTubeやTwitterなどの新たなるメディアの力であり流れ(系)です。

これは新聞、雑誌、テレビ、その奥にある電通などの広告代理店に代表されるオールドメディアとインターネットを媒体とするニューメディアとの闘いであり、どちらの流れが本流になるかの決戦です。

そして今はこの闘いの勝者がどちらになるか分かりませんが、時代の流れは確実にニューメディアの方に向いており、遠くない日にそちらが席巻してくることは間違いありません。

流通業で問屋制度が崩壊しつつあるように、インターネットのように、末端の民衆の意見が直接世界を駆け巡るというのはこれからの時代の理です。

その流れの中で、先のマスコミ、既得権益者の利権構造をはじめとし、様々な流れ(系)が、それを変えることができるかどうかは別として、誰の目から見ることができるようになってきつつあります。

流れというものは、目に見えなくなってしまうと、いつか必ずそこに淀みが生じます。
常に見えるところで、そして止まることなく流れ続ける、これが清浄な流れを作り出す絶対条件です。

生態系とは自らが生きるためのフィールドです。
それが目に見えないところで、誰か分からない人の手によって管理され、動かされている、これではまるでいつ崩れるか分からないガラスの塔で暮らしているようなものです。

本当は、最低限の食料と水、電気といったエネルギーは、自分の目に見える範囲で自給できる生態系があることが理想ですが、そこまでは望めなくても、常に今暮らしている土地との調和を考え、そこに根ざして生きていけるようにしていきたいと考えています。

これは理屈で説明できない感覚的なものですが、人間は自然の一造物、数字で表される理屈とともに、この感覚を大切にしなければなりません。

現代人はこの感覚を捨てたがゆえ、崩壊への道を進んでいるように感じます。