十人十色

一昨日の「共生関係はフラクタル」の続きのような形です。

積極人間の集いの面白いところは、講師の話もさることながら、約三十名の参加者が一言ずつ感想コメントを述べ、それが実に多彩であり、思いがけないいろんな意見や考え方を聞くことができることです。
参加者は固定メンバーが多いので、あの人は今日の話をどの様に感じられたのかな・・・と想像し、それを確かめてみるのも楽しいものです。

人間は十人十色、考え方は様々です。
それは頭では分かっていても、体で理解するのは難しいもので、それを積極人間の集いでは毎回自分とはまったく異なった考え方と接することができ、また思っていなかった切り口を知ることもあり、それが一番の学びとなります。

みな自分が考えているものが最も正論であり人に深く共感してもらえるものだと思いがちですが、本当はそんなことはありません。
自分の考えていることを他人が正論と受け取るかどうかは分かりません。
また正論だとしても、他人がそれを受け入れるかどうかは別問題です。
そして大多数の人が持つ意見が正論かどうかも分からないもので、人の考え方や受け取り方というものは、あくまでも自分という絶対の存在から見た相対の世界です。

「共生関係はフラクタル」で鈴木秀子さんの「神は人を何処へ導くのか」の一節を紹介し、久し振りにその本のページを開くと無性にその先が読みたくなり、結局一冊まるまる再読してしまいました。

この本の初版は平成7年、今から24年前です。
たぶん出版されてすぐに購入し、鈴木さんの何冊目かの本として読んだように記憶しています。
そしてその英知に満ちた深い内容に共感し、何冊かまとめて買い、すべて知り合いに贈りました。
その後ブックオフで見かけた時も購入し、それもやはり知り合いに差し上げています。

そしてしばらく手元にはなかったのですが、今ある本は昨年たまたま通りがかった道端に資源ゴミとして出されていたもので、いい本がまとめて括って捨てられていて、その内の何冊かを持って帰ってきた中の一冊です。
なんだか自分の所に戻ってきてくれような気分で嬉しかったです。

この本を通読するのは十年ぶりぐらいだと思います。
長い期間を空けてこの深遠なる鈴木さんの文章に触れ、やはり人生経験を積んだ分だけ、以前よりも内容が深く心に残ることを感じました。
今この時、再びこの本に触れることができて幸いです。
またそうなるであろうという“サイン”を感じ取ったから読んだのです。

鈴木秀子さんが書かれる深い心の世界、霊性の世界はすべての著書共通のものですが、この本ではご自身がカトリックのシスターという宗教者になるまでの道筋と体験、また深い霊性を得るに至ったことなどが述べられていて、鈴木秀子さんに関心を持たれた方には是非読んでもらいたいものです。

また人間の生きるということ、死について、それらについて語られるエピソードも秀逸で、こんな深い世界を自らが直接関わった人たちとの中で語ることができるというのは日本では鈴木さん以外におられるのでしょうか、少なくとも自分は知りません。

そしてもう本当にどんな言葉でも形容しきれないのですが、それらを表現する薫り高い文章がまた実に素晴らしいのです。
こんな気品と余韻ある文章を書ける人は、日本の一流作家と呼ばれる人の中でもたぶん希有の存在でしょう。

鈴木秀子さんは高貴な宗教家としての魂と霊性、そして誰よりも優れた知恵と知性を持たれた方で、他の誰とも比べようがありません。

鈴木さんの本はこれまで数十冊買い求め、そのほとんどを周りの人たちにお贈りしました。
その中の一人、高い超能力を持ち全国を駆け回っておられた神主の故菅原太史先生は、
「鈴木さんの本は電車の中では読めないよ。涙が出るから」
と言ってくださいました。
鈴木さんのお言葉は、心の中の最も深い、霊性、生の根源のところに響きます。

ただこの本で少し気になるのが、「神は人を何処へ導くのか」というタイトルが少々刺激的なことです。
このタイトルは内容に合わないというよりも、文体やそこから感じ取る雰囲気、余韻とはまったくそぐわないものです。
また表紙のイラストもエキセントリックで毒々しく、なぜこのような装丁にしたのか不思議に思います。

英知に満ちたこの本、他の読まれた方がどのように感じておられるのかが気になって、Amazonのカスタマーレビューを見てみました。
そこには今日現在二人の方のレビューが載っていて、その中のお一人が星ひとつという低評価をつけておられるのでとても驚きました。

ここでこのページの最初の部分と結びつくのですが、人によって見方、考え方は様々です。
それをどれが正しい、どれが間違っていると評価することはできません。
それにしてもこの本に星ひとつというのは自分にはまったく理解できませんが、幸いにして詳しいレビューを書いておられますので、それについてコメントしてみたいと思います。

この本は「題名と中味が違う」とのことですが、自分はそうは感じません。
たしかにこの本の直接的な書名から受ける感覚と本の内容はそぐわないものですが、本来神とか、神の導きといった極めて深遠なものは、直接的かつ具体的な言葉でその詳細を述べることは困難です。
困難というよりも不可能と言っていいと思います。

本当の真理というのは言葉にできないもの、不立文字であり、それは教えたり教えられたりするものではなく、自らからが感じ取らなければならないものです。
ですから本の中に書かれている様々なテーマ、それを心の中の深い部分で感じたら、その感じ方の赴く方向、それを自らの神、神性の導くものととらえ、自らの“答え”とするのがいいのではないでしょうか。
なので自分にはこの本の題名は最適ではないものの、中味から大きく外れたものとは感じません。
これはあくまでも個人としての捉え方です。

そしてレビューの中に
「クリスチャンには有難い本かも知れないが、クリスチャンでない者にとっては、独りよがりで、分かりにくい本で、むしろ反感さえ感じた」
「すぐに神などという言葉に逃げ込まずに、キリスト教信者でない一般人にも分かるように、丁寧に説明して欲しかった」
という言葉がありますが、これも自分の感覚とは異なります。

自分もこの方と同じようにクリスチャンではありません。
東洋思想、自然観を重んじるという意味では、反キリストと言えるかもしれません。
けれどだからと言ってキリスト教的解釈がまったく心に響かないということはなく、西洋の考え方にもそれなりの素晴らしいところがあり、世界の何億という人たちが信仰するものにはやはり深い知恵と力があるのだと、鈴木秀子さんの文章を通して知りました。

真理、生命、または神とは一本の樹のようなもの、その枝葉はたくさんあったも、それが本当に生きたものであるならば、幹や根っこは必ず通じ合っています。
これは理屈というよりも感覚的なものです。

繰り返しますが、このレビューを書かれた方を間違っていると言うつもりはまったくありません。
ただ自分とは考え方、感じ方が違うというだけ、ただそれだけです。

そして本当のことを言うと、こういうレビューを見ると少しだけ心の中にホッとするものを感じます。
それは「あの素晴らしい鈴木秀子さんでも批判を受けることがある」という事実を知ることにより、その比較対象にもならない自分が“正論”と感じることに他人からの同意が得られなくても、それも当然、致し方のないことと、気軽に受け取ることができるからです。

人間は赤ちゃんとして生まれ、当初は自他の区別をつけることができず、すべてが自分の思いのままの世界と信じ、時を経て少しずつ他を認識できるようになり、それでも当初はすべてが自分の母親のように己の意志を100%受け止めてくれる従属物の様に感じ、その他者の存在を他者として認識できるようになるのが大人への道のりです。

他者の考え方を受け止め、自らの正論はあくまでも主観的なものとして捉えられるようになること、これがなかなか難しいですね。
自分を含め、これができない人が多いように感じます。
自らの感情をコントロールすることができない人などはまさにそうでしょう。

さらには自分とは真逆の考え方の中にこそ、深い学びがあるものです。
最後に、今日目にしたネット記事の一文をご紹介いたします。
アリは混雑の予兆を察知?「渋滞学」研究者が語る渋滞の回避法 – より

だからいまでもあるテーマの本を買うときは、できるだけその本を批判している本も買うようにしています。たとえば私はいま利他主義を研究していますが、あえて利己主義を絶賛している本も読む。そこまでして初めて利他主義の輪郭のようなものが見えてきます。

渋滞にしても、政策にしても、勉強法にしても、やはりちょっとズームアウトして全体を見ることが大事だと思いますね。そうすると違う視点が見えてくるものです。